2. 『乾文學』と、これからの社会と
せっかくだから『乾文學』の話をしてみたいですね。ここにこれまでの刊行物(創刊号~第五号)をもってきてみました。毎回書いているのは伊勢君でしょうか。
なんでまたこんなことを急にやりはじめたのか、そんなことから話してもらえると面白いかも。
僕が創刊号から書いていることと、「乾文學」とか「乾坤舎」と名付けたのは僕なので、ちょっと話をしてみます。
和敬塾も塾生が減ってきて、体育祭のような行事などについて、気が進まないけれどやらなければいけないとか、負担が多いというようなこともあり、賛否両論分かれていると思います。当然のことですが、肯定的にとらえて、これからもやっていこうという人もいれば、もうやめてもいいよ、縮小していこうよという人もいる。非常に単純化すれば保守と革新のようにも言えるかもしれない。以前OBの方と話をしたら、今の和敬塾には対立する構造があるのが大事なんだ、議論することができるだろう、という話でした。しかし1年くらい議論を聞いていたら、だいたい同じ話しかしないんですよ。残したい人は、残したいという意見のパターンがいくつかあって、反対する人は反対の意見を言い続けるんですけれども、どの会議に参加してもいつも同じようになるので、僕はあまり意味がないと思ったんですよ。
それとは別に、職員の方から、受入行事はこんなふうに考えているけれどどうだ、とか言われると激しく反発する人もいる。けれども塾を運営しているのは塾生ではなくて職員だから、塾生が折れる部分がある。和敬塾において「自治」という言葉が出ることがあるけれども、事務所の人に逆らうことが自治だというふうにも僕は思わない。自分の意見を持つというのはもちろん大事で、互いに良好な関係を保ちつつ、僕らが突然突拍子もないことを言って、意表を突くというようなことをやってみたいなと。専務のいる前でこれを言ってしまうと意表がつけないんですが(一同笑)。
さっきのように行事について賛成や反対という対立があって話が進まないまま、和敬塾全体としてはなんとなく衰退するというようでは残念なので、もっと別の方法で塾生がつながりあったり、人間形成をやったり、そういうのが可能なのではないかと思いました。それは事務所の方も想像しておられなかったと思うし、そこで僕たちのやりたいことができれば、それも立派な自治でもあると考えました。
スポーツはできる人とできない人がいるけれど、大学生であれば、うまい下手はあっても文章を書くことはできるはず。だからとりあえず誰でもできる枠組みを作りたいなあと思って、そういうのが好きな仲間と話をして『乾文學』に行きつきました。創刊号から最新号まで、文章が書きたい人はもちろん、そういうのが苦手だったり好きじゃなかったりする人に書いてもらったり、対談をやってみたりというかたちにしてみたい。文学好きだけが集まるだけではなく、できるだけいろんな人が集まれるようにしていこうと考えてやってきたところです。
例えていえば、サザエさんに出てくる空き地のような、みんなで遊べるような広場、公園、遊び場を作りたいということです。
でも文字を書くのは死ぬよりつらいという人もいるでしょう。そういう人が参加してくれる気配はあるんですか。
それで次に出す8月号では「筋トレ」について対談しているんですよ。これまで『乾文學』に参加してくれない人で、めっちゃ筋力トレーニングが好きで、体を鍛えている先輩がいる。でも大学でスポーツをやっているとか、サークルに入っているわけでもなくて、ただ鍛えている。どうしてなのか、という話を聞くために、先輩二人のところへ行って話を聞くという企画を進めていて、これは記事になると思います。書くことができなくても話すことはできますし、写真を撮るとかデザインするか、いろいろなかたちで参加してもらえたらなあ、と思っています。
文章を書くのは努力すればできるというのは、たしかに多くの人がそのようにやっているけれども、スポーツの世界で考えたらどうか。戦後の教育では、努力すればひとしなみにできるようになるという考え方が強かったが、5段の跳び箱までしか飛べない人が、10段跳べるようになるかというとなかなか難しい。文章が書けない人でも参加できるようにしたいというのはよくわかるけれども、そういう人でも活躍できるという局面を作るのはけっこう難しいのではないかと思います。
確かにそうですね。だから必ずしも『乾文學』だけでなくてもいいと思っています。ワイワイガヤガヤやりながら、書きたい人も書けない人も集まってほしいんですね。僕の最終的な目標は、乾寮、ひいては和敬塾全体に気軽に参加できるいろいろな活動があって、意外な出会いがあったり、発見があったりというようなことをやりたいです。『乾文學』はそのなかの一つの手段でもある。乾寮では映画を見る会ができたりしているので、やれるところでやっていけばよいと思っています。
最近の社会では多様性ということをたいへんに言うようになってきた。成長段階において、スポーツが苦手とか、文章が書けないからと言って、ごく一部のことをやるのでいいのかというところがあります。それらが予定調和的にまとまれば、社会もそれなりにまわっていくのかもしれないけれど、一般的な意味で、やはりトータルにある程度のことがこなせて、はじめていろんな人と組んでいくことが可能なのではないかと思います。
その意味でも、今の話のように、文章を書くのが苦手な人が、若干でもそういう世界に関心をもって接してもらうというのは大事なことだと思う。若い人たちが、トータルの人間として、どのような素養を身に着け、いろいろなつながりをもって展開していける力をつけられるか、というのは大事じゃないかと思います。
トータルな力というところで思ったのですが、大学も専門分野ごとにスペシャライズされている。何か一つ選ぶことになっていますが、入学してその勉強しかしないという人が、ほとんどではないかと思う。経済学部に入ったとしても、実際に社会に出たら経済学だけじゃ太刀打ちできない、政治も知らなければいけないし、理系のことも興味がないといけない。そういうことを考えると、個人的な印象では、ほとんどの大学生はトータルなところはやっていない。多様性といわれても、たしかにいろんな人はいるけれど、ではその個人を見たら、その人の中は多様かというとまったくそんなことはないでしょう。
そうなんですね。若い人が世の中で一定以上の発言権を得ようとしても、学問で特定の専門性の高い世界にはいろうとすると、若いうちはひたすらそのことに打ち込まなければならない。それでいて野球の長嶋や王みたいになれる人はごく少ない。同じようなことが理科系の非常に細分化された専門分野で起こっている。若いうちは、ごく狭い分野で実験に明け暮れている。そういうところで、ちょっとでも文学やら歌舞伎やらに手を出すと、あっというまに置いていかれる。そういう競争の中で勝ち残れる人でないと、世間的な意味での発言権すら得られないのが現状です。
それではいかんのではないか。専門性と同時に、若い人たちにトータリティをもってもらえるようなこともしなければならないのではないか。一体トータリティとはなんであるか。専門分野のなかで勝ち抜いた人たちが、その分野のトップを形成するかもしれないけれど、それでいいんだろうか。そういう議論を、今、元東大総長の吉川弘之さんらとしているんですよ。
吉川さんの名前を出したのは、この先生は皇室典範改正の委員長をやっていましたが、ロボット学者が女帝問題に関与していいのかという人もいました。しかし彼は専門分野だけの幅の狭い人ではない。
若い人たちには、トータリティを持ったうえで専門分野で勝負してもらいたい。そのバランスをもっと考えなければいかんのではないかという議論をしております。とはいえ、まだ解決策はみつかっておりません。
『乾文學』は、現状では文芸誌としては非常に多様性があると思っています。一応テーマは作っていますが、あまりそれでしばることもない。それぞれ自分の勉強していることや好きなことを思い思いに書いています。大学ではそれぞれ自分の専門をやっているわけですが、『乾文學』を読んでいるときは全然自分の興味がないところにぶち当たらざるを得ない。意外にそういうところで知らないことを発見するのが大事だと思っていて、むしろそういう可能性がある以上、『乾文學』はそこで押していきたい。
文系と理系という話がよく出ますが、文系の人が理系に手を出すのも大事ですが、理系の人が文系に手を出すほうがハードルが低いのではないかと思ったりします。領域横断的なことにあこがれもあるし、そういうふうにやりたいなと思っています。
そうですね。両方とも大事だと思います。理系というのは何が問題かというと、メソドロジー(方法論)において正確な記述をするために数式が必要になってくるわけです。そうなるとある程度の数学が必要になってくる。そのためには高校時代くらいから数学という一大分野について親しんでいないといけない。理系の分野では、文章だけで表現することは非常に難しいから、どうしても数式がでてくる。文系の人はそのメソドロジーのギャップをどう乗り越えるか、という問題があると思います。
和敬塾時代のことを思い出すと、法学部の人は「我々の数学は分数だけでいいんだ、遺産相続のときに使うだけだから(笑)。理系の人は、超越関数でもなんでも頑張ってやってくれよ」といっていました。文系の人でも微分積分の概念は大事だとは思いますよ。積分は面積を計算する、積み上げ総量を計算する、微分は変化率を見る、というような概念は大事だなと思います。最低限これだけわかっていれば理科系のことはだいたい押さえられるという概念があってしかるべきだと思う。しかるに我が国の数学教育では、ややもするとディテールばっかり言っていまして、一方アメリカの数学の教科書、あるいはロシアのスミルノフ(ウラジミール・スミルノフ)の教科書はすごくわかりやすい。フーリエ級数というものがありますが、なんであんなものが必要なのか。いろいろな形を表現するのに波動関数の和として表現できる。それはなんであるかというと、いろんな形をきちんと数式にできるという意味なんですよ。それを最初に説明してくれればよく分かってくるんですが、なんかサインが重なっているようなものとして説明するんですよ。もっと文系の人にも入りやすい数学を求められていながらも、けっしてそうなっていない。だからメソドロジーにおいて文系の人が大いに理系のことをやろうとしても容易ではない。そういう問題があると思う。
メソドロジーの差というものをまったく考えたことがありませんでした。僕は文系なので、すごく乱暴に言うと「もの」があったとして、理系は人間の存在とは関係なく、そのものを直接的に見ているようなところがあって、文系はむしろ「もの」そのものよりも、それを見ている人間について考えている。そういう差があるから、なかなかとっつきにくいのかなと考えていました。
主体客体の差というのはあるかもしれない。文系は人文科学、社会科学というように集団と人に関する学問であり、ドイツ語でGeisteswissenschaft、ガイスト(geist精神)に関することを扱う。自然科学はNaturwissenschaftだから「自然natur」、本当は自分を含む自然かどうか、含まない客体としての自然かというところがあるのだけれども、そういう違いがあると思う。
最近我々が大きな問題だと考えているのは、AI(人工知能)は人間とどういう関係にあるのか、一般的な問題としてはAIは人間を超えるのか、という問題です。AIは意思を持てるのか、そこから翻って人間の意思とは何か。推論に関してはAIはけっこう有能である。しかし自分の意思というものはなんであるか。人文科学や社会科学ではよく考えてきたけれども、自然科学の分野ではAIにぶち当たって、はじめてそれを考えるようになっている。人文科学ではガイストというけれど、行動科学から見ると刺激に対する反応の集積にすぎないのではないのか、という見方もある。そうではなくて人間として意識を持った瞬間から、先験的とはいわないが、なにか意思というものがあるのか。皆さんはどう思いますか。
最近、将棋や囲碁で人間がAIに負けているという話題があります。大変だと大騒ぎする向きもありますが、二つのことが言えると思う。一つは、AIは将棋を思いつかなかった。つまりゲームという枠組みを考えるのは人間だったということ、それと羽生名人は将棋が好きでやりたいという人でしょうが、AIは将棋がやりたいのかどうか。将棋をする機能が付いた機械ではあるが、スイッチを入れたら将棋をするだけで、AIが将棋をしたくなって自分で電源を入れるようなことはないのではないか。誰かによって目的設定がされていないと、何もできないのではないかと思いました。非常に素朴な話で申し訳ないのですが。
早大の孔子学院に、漢詩を鑑賞するAIを開発している中国の先生がいます。ITにも詳しいけれど、漢詩も大好きという先生で、詩を入力するとその詩の素晴らしさや、その詩が素晴らしいかどうかを解析してくれる。いわゆる名作・名詩に共通する点を探っていくというものらしいです。その話を聞いて思ったのが、いずれその機械は詩を書きだすと思う。書けといえば書くと思う。そこでとてもよい詩ができた場合、僕らはそれをどう受け取るのか。とてもよい詩で感動したといったときに、じつはそれは機械が作ったものですといわれた場合、はたして李白や杜甫の詩を読んで感動するのとおなじように、喜んで享受できるのかという疑問があります。
何がよい詩かというのは難しいところがあって、李白の『静夜思』「頭を挙げて山月を望み、頭を低れて故郷を思ふ」という詩は、いま中国で一番人口に膾炙しているでしょうが、それがよい詩かと聞かれても答えようがない。杜甫の『春望』「国破れて山河あり」や『高きに登る』などは、語彙も豊富でいいような感じもするが、李白は大胆な誇張や飛躍があるでしょう。「白髪三千丈」とか、「銀河の九天より落つる」とか。
この前、伊勢さんの部屋でお酒を飲みながら李白の話をしたけれど、李白はお酒が入らないとわからないような飛躍があるという話でした。
たしかに杜甫も「李白一斗詩百篇」といっていて、李白には酒がつきもののところがありますね。先ほどの『静夜思』は月という字を何度も使っているし、あれがよい詩かというのはわからない。しかし、中国の若い人の間では一番知られている詩でもある。
みんながよいと評価するから、よい詩だというところもあるかもしれない。判断の尺度としては漢詩のイメージの積み重ねがある。別れの場では柳があって、秋は物悲しくてというような、いろいろな人がそのような詩を書いている。多くの人がそのイメージをよいと思うので、そのまま使われていく。そういう漢詩的イメージを塗り替えたり、屈折させてみたりするところに新機軸が生まれる。例えば李白の『早発白帝城』に猿の声が出てくる(両岸の猿声啼いてやまざるに)。漢詩では猿の声はもっぱら悲しいものとなっている。李白の場合は、流罪を放免されて晴れ晴れとした気持ちで書いたという説がある。そうでないと、あの詩のなかで猿の声が悲しみの象徴として使われていないことの説明ができない。あの詩については、誰もが軽やかな調子であると解説しているけれども、誰も猿の声について説明できていない。だからこれまであった猿の声の詩的イメージを更新するようなところがあって、そのような詩には名作が多いと思います。
そうすると、これまで使い古されてきた言葉、つまり多くの人に共有されてきたイメージということでもあるけれど、悲しいはずの猿の声に新しい意味を与えているというところがあるから優れているというのは分かります。けれども、もし李白ではなく石田寛人が書いたら、悲しいはずの猿の声をそう書いていないと、漢詩の常識も知らないじゃないかといわれるでしょう(笑)。杜甫も「颯爽」(『丹青の引 曹将軍覇に贈る』)のように新しい言葉をつくっているわけで、しかし作った瞬間に素晴らしい言葉になるのか、ということを考えると難しいなとも思う。
孔子学院の先生がITでよい漢詩とはどんな漢詩か。漢詩にはもちろん「平仄」などのルールがあって、それをおさえているのは当然ではあるが、それを超えて、よい詩とは何かを考えるというのは、非常に難しいけれども、ものすごく面白い話ですね。
よい詩とはなにかというよりも、人間がよいと思うとはどんなことなのか。よいと判断することは人間にしかできないことなのか、AIにもできることなのか。できるならば評価の要素を探っていくと最後にAIは意思を持てるのか、というところまで行くのではないかと思う。
AIは最終的に評価を下せるようにはならないのではないかと思います。例えばある漢詩について、100万人にレビューを書いてもらい「星(点数)」をつける。その大量の星の数のデータから、作品のレビューを点数で判断するようなことなので、データ量は大きくできるが、AI自身が考えて答えを出しているわけではないと思います。
漢文を学ぶ立場からすると『文選』に「古詩十九首」というのがある。誰が書いたかわからないけれども、伝説的な詩であって、評価が高い。誰が書いたかもわからない、一人で書いたかもわからないのだが、思想性を求めてしまう。よく人生の深い省察があるというふうに評価されている。同じようにAIが詠み人知らずで、たくさん詩を作ったら、その詩の中には、人生の深い省察があるとかいわれるものもでてくるかもしれない。
そもそもAI的なものは定量的なものしか扱えないのではないかと思います。芸術についていえば、本来感覚的なものであるし、作品の背景と結びつけて考えるというところもある。定量的には表すことのできない世界といえるのではないか。そうなってくると果たしてAIが、非定量的なものを追求できるのか。今見ているところの印象では、AIにデータを入れ込むと自動的に動いて何かが出てくるようになっている。漢詩の話も同じように考えられるのではないでしょうか。
じつは漢詩は、一部の伝説的な作品を除けば、だいたいデータベース的です。これまでの人が書いてきたイメージや詩語があって、傑作の足元にはそれまで積み重ねられてきた詩語がある。それをデータベース的に使っている。こういう状況ではこういう心境になって、こういう立場になる。だからその時に出てくる言葉は必ず「雁」でないといけないとか。だから単に漢詩を作るだけなら、データベース的な作業で、AIが作るのと人が作るのは非常に近似しているのではないか。もちろん傑作と呼ばれるようなものは違うわけですが。
私に言わせれば、人の作るものはすべて人の似姿でしかない。つまり人間に作れるのは、人間に関係したものか、人間に似たものしか作れない。例えば、ものを切る場合、手で切ることができるが、それがナイフやノコギリ、電動カッターとどんどん展開してきた。つまり身体機能を拡張すると道具になる。それが進展してきて、ものすごく上手くいくようになると、人と、人の作ったその似姿はものすごく似てくるようになる。ものすごくよくできた似姿からできてくるものは、すごく良いものだったりしそうです。先ほどの話に戻せば、AIが機械的にすごく上手に作ったものは、下手な人が作ったものよりも、よくできていることは十分あり得るでしょう。
そこでAIは人を超えたかという問題になると、例えば小学生が作った俳句などは「夏休み 朝顔咲いてうれしいな」というレベルだったりする。そうなると人が作ったから素晴らしいかというと、そこはどうでもよい問題になる。
人と人の作る制作物はそういう関係だから、どんどん人の似姿自体が作る制作物が表れてきた、そういう時代に生きていくんだな、というところかと思います。では人間に何ができるかというと、感性的なもの、それと人間の知覚がどう結びついているかというところにある。
さらに考えていくと、人間にできるのは狂気と逸脱ではないかと思います。プラトンも『パイドロス』でいっているように、神がかり、狂気、逸脱というものがある。例えば、漢詩のデータベースがあったとして、それをいくつ知っているかが漢詩を書くことの決め手という考え方もありますが、過去を見ていくと、そのなかで時々おかしい組み合わせを作る人がいる。
例えば李賀にはそういう面があると思います。
ところがそのへんなことが良かったりすると新しい時代になったりする。狂気と逸脱が芸術を生み出す基盤にあると思うが、もっとも狂気と逸脱だけでは芸術は生まれない、やはりデータベースが必要でしょう。最低限ものを知っていないといけない。その辺は先ほどの話にでた古典やら教養の部分に通ずるところがあると思います。
このように自分なりに整理していたので、AIが文学作品を書いてもいいんじゃないですか。面白いかどうか、それを選ぶのは人間だよ、と思います。
ひとつ言っておきたいのは、野中君が言ったように、AIが情報をあつめてみんなが良いと評価するものをベースにAIが良し悪しを判断するということは、じつは人間もやっているのではないかと思う。つまり学習というものにはそういう面があるのではないか。例えば古典は良いものだとみんなが言うので、訳が分からないままに読んでいるうちに、だんだん良く思うようになってくる。
AIもいろいろなレビューを集めて、みんなが良いといっているのでこれは良いと判断する。それによって人間の感性が左右されることがありえるでしょう。Amazonのレビューなどはすでにそうなっている。それをその当人がどう思うか、というのがポイントで、Amazonでみると「あなたにおすすめ」が出てきたり、星が五つだとこれは良いものなのかなと思ったり、そこですでに影響されている。そこを本人がどう考えるか。
そこですね。AIに感性があるか、感情を持てるか、というところがポイントだと思うんですね。ですがビックデータという恐るべき情報量を扱って、データがデータを生み出すような状態になっている。たしかにコンピュータは定量的なものしか扱えないし、我々は定性的な世界に生きている。しかし我々を構成している細胞や神経を考えると、一種の情報の集積である。我々の身体はデジタルな世界ではないと思っているが、身体自体が一種のビッグデータでもあるといえる。そう考えるとAIもいずれ人間のようにアナログのような面を持つにいたるかもしれない。それと感情というのは外部からの刺激に対する反応という図式を考えると、このような場面では悲しい、また別の場面ではうれしいという感情が生まれるということを集積していくと、感情に似たものができてくるかもしれない。私自身はコンピュータが意思を持つようなことにはなってほしくないと考えるが、我々がそれに意思を感じるようにはなるのかもしれない。ビッグデータの世界をよくよく考えると、即断しにくいものがあると思って、私もいろいろな方から話を聞かせてもらっています。
ここで私が手前味噌的なことを言い出すのは、ちょっとためらいますが、和敬塾では非常に生々しいことをやっている。一緒に顔を合わせて、食事をしたりお風呂に入ったりしている。和敬塾はどうしても人間が人間に接触しつつ暮らしているという生々しさがベースにある。そこから考えると、いろいろなものが出てきても別にかまわないという気持ちもあります。
人間関係が希薄なところだと、AIのほうがより存在が濃厚だったりして、そちらに惹かれるかもしれない。すでにスマホに質問すると、何か答えてくれたりして、愛想のない人間よりもよっぽど対応が良い。しかし寮にいて隣の人に聞くと、変な答えが返ってきたりする。ひょっとすると言葉で返事が来るのではなく、行動で返答されるかもしれない。その生々しさが和敬塾の勝負のしどころといったら言い過ぎだが、良さというのはそういうところにあるのではないか。そこのベースがしっかりしていれば、何が来ても何とかなるかなと思っています。非常に楽観的で、それが現代ではどう評価されるかわからないが、現代だからこそ重要だと思うところもあります。ここにいれば人間同士の濃厚な付き合いがどうしても出てくる。その面白さに対して、時代的には、それが嫌という人も出てきたなと思います。
結局自分の中に判断基準があれば、いろいろな局面が来てもやっていけるんではないでしょうか。
プログラムをやっている人に聞いた話ですが、すでにプログラムを書くプログラムというのは出来ているそうです。しかし、それが書いたプログラムを人間が見ると、なんでそう書かれているかわからないところがあるという話を聞きました。プログラムというのは一種の言語ですから、人間が見れば、ああなってこうなってという筋が見えるはず。それにお互いが読んでわからないと後で修正したりするときに仕事にならないところがある。しかしAIが生成したプログラムは、人間には意味が分からない、不思議なプログラムが書かれているところがあって、でもきちんと仕様どおりに機能している。それを聞くと、ちょっと人間の存在も危ういなという気がしました。
つまり機械が自分の言葉で語りだしたということでしょうか。すでにそういう世の中は始まっているので、若い方はそのつもりでいたほうが良いかもしれませんね。
だいぶ時間も押してきましたが、塾生の皆さんから石田さんに聞いておきたいことはありますか。